
伊豆半島の港湾都市・下田で印象深く見たのは、ある芸妓(げいぎ)の記念館だ。下田は日本を開国させた米国のペリー提督の上陸場所であるとともに、駐日米国公館が最初に開設された場所としても有名で、開国と近代の記憶をとどめる施設が多い。芸妓「おきち」の記念館も、その中の一つだ。おきちについての公式の記録は、初代米国公使タウンゼント・ハリスに3日間仕えたというものが全てだ。ここに数多くの物語を付け加え、おきちは「国のために犠牲になった悲劇の女性」として劇化された。日本が世界との最初の対面をどれほど思い出にしたがっているか、察することができる。 ■世界競争力ランキング10位は米国、中国20位、韓国23位、日本は? 日本で征韓論問題が起きたのは1873年のことだ。韓国史の教科書は、日本がこのとき韓国併呑まで目標を定めて武力を通して一直線に押していったかのように記述する。結果は正しいが、内容は違う。征韓論問題は内戦(西南戦争)まで経る中で、武士の旧勢力の退場と外交を重視する新勢力の台頭に帰結した。日本の国際化に強い動力を提供した事件だ。韓国の記述は、日本の新勢力がその後、巨大な国際外交の舞台においてどのような手法で韓国を飲み込んでいったかを教えることができない。 日露戦争の初期、フランス紙「ル・プチ・パリジャン」に載った有名な漫評がある。ちっぽけな日本人と体格が3倍くらいあるロシア人がリングで向き合っている。リングの床には北東アジアの地図が描かれている。ロシア人は満州と韓半島北部、日本選手は韓半島南部を踏んでいる。観客席の前列には大柄な英国人、次の列にはフランス人とドイツ人が座っている。さらにその次の列には米国人が立っている。競技場に入ることもできず、テントの上からのぞき込む中国人の様子が哀れだ。
当時、日本は英国、ロシアはフランスと同盟を結んでいた。英国はさまざまな手法でロシア艦隊の戦力を枯渇させた。こっそり薬を盛って選手を弱らせた後、リングに上げたようなものだ。フランスは動かなかった。フランス参戦の可能性があったなら、日本は戦争を夢見ることはできなかっただろう。韓半島の運命も違っていただろう。フランスはなぜ参戦しなかったのだろうか。同じ時期、フランスはモロッコを巡ってドイツと衝突していた。英国の支持が必要だった。これを契機として英国とフランスは、1904年に敵対関係を清算する、いわゆる「英仏協商(Entente)」体制をつくり上げた。英国の同盟国にやいばを向けることはできなかった。 日本が英国と同盟を結んだのは1902年だ。実権を握っていた井上馨は「拾い物」だと言った。だが日本には、地球の反対側でチョウが羽ばたくのを鋭く読み取る卓越した外交官がいた。国際外交の力学変化を神業のごとくつかみ取り、敏速に反応した。日英同盟でロシアを孤立させた後、戦争に突入した。日本海軍は韓国の鎮海基地でロシアを待ち構えた。作家の司馬遼太郎の著書『街道をゆく』には、李舜臣(イ・スンシン)鎮魂祭を開く日本海軍の様子が出てくる。戦場へ向かう軍人らが李舜臣に向かって礼を尽くしたという記録もある。かつての敵将に対し礼儀を備えることで、戦勝を祈願した。征韓論問題もモロッコ危機も知らない韓国は、李舜臣の価値すら日本よりも理解していなかったのだ。
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