
今月10日に死去したペク・ソンヨプ元韓国陸軍大将に対する各界からの哀悼が今も続いている。6・25戦争の英雄であり、韓国軍創軍の元老でもあるペク将軍は6・25当時、多富洞戦闘を勝利に導き、米軍から「生きた伝説であり神話」と呼ばれていた。戦後は韓米同盟のシンボル的な役割を果たしてきた。そのペク将軍の死を受け、米国大使や在韓米軍司令官は弔問と追悼の声明を出すなど個人の死を悼んだ。 1950年の北朝鮮軍による8月攻勢を防いだ第1師団の多富洞戦闘は、スパルタの300人の勇士がマケドニアの海岸にあるテルモピュライ峡谷でペルシャの大軍を防ぎ、全員が玉砕した戦史と比較される。もし多富洞が北朝鮮に突破されていれば、臨時の首都だった大邱が敵の砲火の射程距離に入ってしまうからだった。当時30歳の若さで第1師団を率いたペク将軍は、後退しようとする韓国軍兵士たちを立ち止まらせ、このように述べた。「国が滅びる直前だ。あの人たち(米軍)は戦っているのだから、われわれは退却できない。私が先頭に立つので私に従え。私が後退すれば私を撃ち殺してもよい」。ペク将軍がハッパを掛けたことで、将兵たちは最終的に戦闘を勝利に導いた。 ペク将軍の第1師団は仁川上陸作戦後、最初に平壌に入城した部隊となった。米軍の第1騎兵師団、第24歩兵師団などと激しく競争した末の結果だった。戦争中に韓国軍第1師団は米軍の間で「最もよく戦った韓国軍部隊」と評されたという。ペク将軍は6・25戦争中に韓国軍と警察の遺児や親を失った孤児たちのために孤児院を建てた。1951年11月には野戦戦闘司令官に任命され、智異山のパルチザン掃討作戦などでも功績を立てた。
戦時中の1952年7月、ペク将軍は陸軍参謀総長に任命された。最年少だった。翌年1月には満33歳の年齢で韓国軍初の四つ星将軍となった。停戦会談には韓国軍代表として参加した。ペク将軍は1959年に合同参謀議長となり、翌年5月に予備役となった。最高勲章の太極武功勲章を2回も受けた。ペク将軍は生前、本紙とのインタビューで「人生で最も輝いた瞬間」について「将兵たちと共に平壌に最初に入った1950年10月19日」と語った。 ペク将軍は1952年12月に来韓したアイゼンハワー米大統領選当選者の前で、韓国軍の戦力増強の必要性についてブリーフィングを行った。ペク将軍は陸軍参謀総長として在任し、陸軍10個師団を20個師団に拡大する結実を得た。1957年には2回目の陸軍参謀総長(10代)、2年後に合同参謀議長となり、その翌年に退役した。 1920年11月23日に平安南道江西軍徳興里に生まれたペク将軍は、幼い頃を平壌で過ごした。平壌師範学校を経て1941年に満州軍官学校を卒業した。満州国間島特設隊に配属されたペク将軍は、1945年の解放直後に平壌に戻った。独立運動家の故チョ・マンシク先生の秘書だったが、金日成(キム・イルソン)が北朝鮮で権力を握ると、同年12月に越南した。越南直後に軍事英語学校に入ったペク将軍は、1946年に韓国軍の前身となる国防警備隊に入隊し、創軍元年のメンバーとなった。
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July 13, 2020 at 06:31AM
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「韓米安保同盟のシンボルが消えた」…米軍からも哀悼相次ぐ(朝鮮日報日本語版) - Yahoo!ニュース
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