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Thursday, April 29, 2021

ブラジルで生まれた最初の大衆音楽とは - Newsweekjapan

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サンパウロにある楽器店contemporâneaでは毎週土曜にホーダ・ジ・ショーロが開催されていた(photo by Aika Shimada)

ブラジルがポルトガルから独立したのは1822年、日本は江戸時代後期、鎖国中にあたる。
そう考えるとブラジルは独立200年を来年に控えた比較的新しい国だ。
これまでに何度も書いている通り、ブラジルは入植者や独立後に受け入れられた移民のヨーロッパ人、奴隷として連れてこられたアフリカ人、原住民であるインディオの混血の国である。日本人の移民も多く、世界で日系人が多い国でもある。
それぞれ違うルーツの先祖を持ちながらも"ブラジルで生まれた者はブラジル人"であり、両親がブラジル人でなくても、現地で生まれた子供にはブラジル国籍が与えられる。

|ブラジルで生まれた最初の"国産"大衆音楽

ブラジルの文化も人種と同じように混じりあい、互いの最も魅力的な部分を合わせながら生まれてきた。
とは言っても、白人文化と黒人文化が互いに行き来するようになるまでには偏見や困難もあったが、逆に言ってしまうと文化を通し隔たりを徐々に減らしていった部分もあるだろう。
ブラジルで一番最初に生まれた独自の音楽はサンバでもボサノヴァでもない。
それはショーロと呼ばれる音楽で、今でもブラジルの重要な文化として大切にされている。

ショーロが一つの様式のなった背景には、当然だが人々の暮らしが関係している。
19世紀半ば、当時の首都リオ・デ・ジャネイロでは、サロンで踊るためにポルカやワルツ、スコティッシュ、ハバネラ、マズルカなどのヨーロッパの音楽が演奏されていた。使用する楽器は主にヨーロッパから持ち込まれたマンドリンの裏板がフラットになったバンドリンとギター、それに加えてクラリネットやフルートなどの管楽器、パンデイロと呼ばれるタンバリンのようにも見えるが高音から低音までの音色を備えたマルチな打楽器だ。
そこで演奏していた音楽家たちは、アフリカ起源のルンドゥと呼ばれる音楽のエッセンスを加えていく。
この時代はまだショーロという言葉は、これらを演奏するグループを示していた。このショーログループのために楽曲が作られるようになり、いつの間にか彼らが演奏する音楽をショーロと呼ぶようになった。このショーロは20世紀初期に発祥したサンバにも影響を与えている。
ショーロの演奏家は昼間は郵便配達、公務員、床屋など別の仕事に就きながら、夜や週末に家族や友人を集めて自宅やサロンなどで演奏をしていた。良い音楽があるところには自然と人が集まる。こうして地元で有名な凄腕演奏家が生まれていった。
大衆的な音楽として中流階級下層の人々に親しまれる一方で、ショーロ、特に黒人文化が強いリズムであるマシーシは上流階級の間では野蛮とされ、ショーロが"国を代表する音楽"となるまでには時間がかかった。例えば、宮殿などで行われる公的な行事ではクラシック音楽が演奏され、ブラジル生まれの大衆音楽が演奏されるようになったのは1914年以降である。

|引き継がれるショーロの醍醐味

ショーロの楽しみ方はコンサートを聴くだけではない。 ホーダ・ジ・ショーロも重要なブラジル文化の一つだ。
直訳すると"ショーロの輪"であり、ショーロのレパートリーがあれば誰でも演奏に参加できるのだ。
誰でもと書いたが、実際には非常にトラディショナルなホーダもあり、場所によっては飛び入りしづらい雰囲気があったりすることもあるのだが、ショーロに対する愛情(曲を最初から最後まで演奏できることと、暗譜が基本である)があれば問題ない。 このホーダは、シンプルなオープンバーの一角、誰かの自宅、公園、青空市場、場所に拘らず開催される。 聴衆はこの輪を囲むようになるので、自然と大きな二重の輪ができるのだ。 これはショーロ本来の家庭的な部分が受け継がれている。

ショーロ界を代表する金管楽器奏者Zé da Velha e Silvério Pontesがホーダに参加する様子

|国際化するショーロの人気

また、近年では世界中にショーロファンが増えている。
その中でも日本には多くのショーロ演奏家やファンが存在すると言われており、パンデミックによりオンラインレッスンが開催リオのショーロ学校Escola Portátil de Músicaではブラジル人に次いで日本人の参加者が多かった。ショーロに魅了され本場リオに向かい、そのまま同校の先生になった日本人フルート奏者熊本尚美さんがその架け橋となり活躍している。

去る4月23日には国際ショーロの日が祝われた。
これはショーロの偉大な音楽家Pixinguinha(1897 - 1973)の誕生日に因んでいる。
驚いたことに国際ショーロの日が正式に決まったのは2000年と最近の話だ。ブラジルを代表するバンドリン奏者のHamilton de Holandaの生徒が「なぜサンバの日やパン職人の日があるのにショーロの日がないんだろう。」と言い出し、Hamiltonが上議院議員に相談し2000年9月4日可決された。
Pixinguinhaはショーロをより多くの人に広めた重要な人物としてしられている。 演奏者としてはフルート、特にサクソフォーンにおけるショーロの奏法を確立をし、数多くの名曲の作曲した他、様々なアレンジも手掛けた。 ここまで触れてこなかったが、ショーロは基本的にインストゥルメンタル音楽である。一人のソリストに伴奏となるグループが基本となるが、ショーロで一番有名な曲、同時にブラジルの第二の国歌的な曲である「カリニョーゾ」には歌詞がある。(同じく、第二の国歌といわれている曲として、ブラジル北東部の音楽である「アザ・ブランカ」がある)

実は「カリニョーゾ」はPixinguinhaが若い頃に作曲したインストゥルメンタル音楽で、当時からすると斬新なコード進行と二部形式(それまでショーロは三部形式が主流)から人々から受け入れられなかった。 三度に渡ってレコードのB面として録音されても話題にならなかったこの曲が注目されるようになったのは、当時人気だった歌手Orlando Silvaが気に入り、録音したいとPixingunhaに申し出てからだ。
元々少しアグレッシブに演奏されていた曲も、João de Barro(通称Braguinha)によって書かれた愛する人への告白である甘い歌詞によって柔らかくなった。ポルトガル語がもつ音の響きがメロディとピッタリ重なる。
こうしてPixinguinhaはショーロをより開放的にすることで、ショーロ自体の可能性を広げたのであった。
以降より多くの人に聞かれる歌曲になり、Pixingunhaの名は今日もこの曲と共に引き継がれている。

本来であれば、ブラジル各地でこの国際ショーロの日を祝うコンサートが行われるが、今年はパンデミックの影響によりYou TubeやFacebookにてオンラインイベントが行われた。
後になってわかったことだが、Pixinguinhaが生まれたのは4月23日でなく5月4日だったそうで、国際ショーロの日の仕掛け人であるHamiltonは「4月と5月の二か月間をショーロ月間にしたらよい。」と前向きに話している。
オンラインでのコンサートは殆どがアーカイブされているので、ぜひ"Dia do Choro"(ショーロの日)で検索してみてほしい。

【今日の1曲】
Orlando Silvaの歌うCarinhoso、Radames Gnatariによる編曲。Pixinguinha本人もフルートで参加している。

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