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Monday, December 6, 2021

究極の“simple English”――英語の世界への鍵は「動詞」である/芹沢一也 - シノドス

bantengkabar.blogspot.com

伝説の名著、長部三郎さんの『伝わる英語表現法』(岩波新書)が、今年8月に復刊されました。復刊決定とともに書店から注文が殺到し、復刊当日に重版が決まるという前代未聞の英語学習本です。長部さんは、米国国務省で通訳の仕事をし、日本の大学や高校でも教壇に立つなど、実践と指導の両面で深く英語に携わってきました。そのような経験から、「英語は単語も構文も、簡単かつ明瞭であること」と喝破します。

たとえば、「国際情勢」。日本人の英語学習者は“international situation”と言いがちですが、英語では“what’s going on in the world”と言った方が、より具体的で意味が分かりやすい。日本人が陥りがちな一語ずつ「訳そう」とする発想から、このように「いかに意味を伝えるか」に意識を切り替えれば、簡単な言葉で生きた英語表現ができるようになると説く長部さん。英語を話すための極意をお聞きしました。(聞き手・構成 / シノドス英会話主宰・芹沢一也)

――最初に長部さんのご経歴を、簡単にご紹介ください。

私は1934年新潟県長岡市で生まれ、地元の中学高校を経て、東京大学に進みました。後期の専門課程は、当時、新設されて間もなかった教養学科(国際関係論)を卒業しました。

卒業後は、1964年から6年間、米国国務省で、日本語通訳担当の嘱託としてワシントンD.C.に勤務しました。「日米医学協力会議」「日米漁業交渉」などの会議や交渉を担当したほか、日本から招かれた要人を案内して、各種機関施設や人物を全米各地に訪ねました。

日本に帰ってからは、通訳だけでなく、政府や民間の仕事で、様々な国で様々な仕事に関わりました。たとえば、1972年の「日本文化研究国際会議」は国家的な一大イベントでしたが、これを主催した(社)日本ペンクラブの事務局長として、会議の準備と実施の裏方を務めました。

サイマル・アカデミーは、日本で初めてのプロの通訳者養成の学校ですが、3年前の2018年に退任するまで約40年間、会議通訳講師を務めました。そのかたわら、1990年から、桐蔭横浜大学で桐蔭国際交流センター長、大学の他、併設の高校、生涯学習講座で英語を教えて、2008年教授職を退職しました。現在は、アメリカの地理情報システム(GIS)のグローバル企業Esri社の日本の販売会社Esriジャパンの取締役をしています。

――日本の英語教育についてはいろいろな意見がありますが、しかしほとんどの日本人が英語を話せないというのは紛れもない事実です。また、いわゆる社会のエリートに属する人々が、これほど英語を話せない国もめずらしいように思います。「使う英語」という観点から見た場合、長部さんは日本の英語教育について、どのようにお考えでしょうか?

的を射た鋭いご指摘です。

我が国の教育制度では、英語は必修課目として、全員が長い年数をかけて学習します。その結果が、ご指摘のように、学業成績の良かったはずのエリートを先頭に、そろいもそろって英語が使えない、この異様なまでの現実を直視したら、誰もが愕然とするはずです。使える英語を標榜する学校教育で、手間ひまかけて営々と真面目に勉強してきた英語とはいったい何だったのか、と。

――どこに問題があるのでしょうか?

明らかにそれは、訳読(訳して読む)偏重の英語教育と、「語学」軽視の伝統に問題があるからです。

文明開化の時代から、私たちの先輩たちは西欧に追いつけ追い越せと、西欧の知識の吸収に心血を注ぎました。そして、「原書が読める」ということが教養の証となりました。その段階では原書は訳して内容がわかればよいのであって、この「読むだだけの英語」が「教養英語」として、大学まで一貫して英語教育の主流であり続けました。

その一方で、話す、書く、という「語学」の部分は「実用英語」として別物扱いでした。だとしたら、それならそれで中学では、技能教育として「実用英語」を徹底してトレーニングしたらどうでしょうか。なかなか変わろうとしない英語教育ですが、これが突破口となって道が開けるはずです。

――「語学」をなおざりにしてきたうえに、長部さんは、英語と日本語は何の共通点もないにもかかわらず、日本語を強引に英語に置き換えようとすることで、「化け物みたいな英語」が生まれると述べられています。英語と日本語の違いを含めて、このあたりの事情を教えていただけますか。

まず単語のレベルで“air”と言えばいいところを“atmosphere”と言うようなことで、これは「玉子」を「卵子」というようなものです。

――わかります! 日本人の英語を聞いていると、なぜわざわざそんなに難しい単語を使うのだろうと、異様に感じることが多々あります。なぜなんでしょうか?

昔読んだAldous Huxleyの作品だったと思いますが、どもる癖のある人が“egg”や“dog”を避けて、それぞれ“ovum(卵子)”、“hound”に言い換える話がありました。これは苦しまぎれで辛い話ですが、私たちの場合は、単語主義で英語を単語で覚えます。

単語はいったん文脈から切り離して、しかも日本語に訳して覚えますから、これを元に戻して文脈をつくることは難しい。似たような単語でも、「体験」していないと使い分けができません。ですから“word choice”が非常にむずかしいのです。

――それが具体的にどのような影響をもたらすのでしょうか?

小著で使った例文(P.89)で考えてみます。

「今は使い捨ての時代だ。まだ使える家電製品や家具ばかりかペットまでがゴミとして捨てられる」

これを次のような英語にしたとします。

“This is a disposable age. Not only home electric products and furniture, some of which are still usable, but even pets, are disposed of as trash.”

まずびっくりします。“What did you say?” “Did you say this age is disposable?”と。

――日本語の発想を、そのまま英語にしているわけですね。

そうです。“disposable age”と“age of disposables”はまったく別物です。次に続く文は、文法は合っていますが、日本語の特徴がよく表れています。日本語は長い文だと特に、主語が大きくなります。それをそのまま英語に置き換えていくと、“that”や“which”の関係代名詞がたくさん出てきて、主語がどんどん大きくなっていきます。英語では常に主語はできるだけ小さく、早く動詞につなごうとしています。

――日本語から英語の発想への切り替えを考えるとき、きわめて示唆的なのが、本書であげられている次のような英語と日本語の対照です。

実際にアメリカの大統領が口にした文章とのことですが、“I did what I said I would do (during my election campaign).”。これはシンプルでナチュラルな英語ですね。それに対して、日本人がこの場面で口にするのは、「(選挙の時に)私がするといったことをした」ではなく、「私は(選挙)公約を果たした」になります。そのため、日本人が英語を話そうとするとき、“I did what I said I would do (during my election campaign).” のようなシンプルな英語が口から出てきません。

長部さんがご指摘しているように、「選挙公約」って英語でどう言うんだろう? などと考えた挙句、先にあげられた「化け物みたいな英語」になっていくのだろうと思います。そこでお聞きしたいのは、どうしたらこのギャップを埋められるのかということです。 「使う英語」のコツを、少しご講義いただけますでしょうか?

日本語から英語へ「切り換え」のプロセスには、前半と後半があります。

前半は、日本語を都合のいいように言い換える作業です。言葉を情報として把握し、「言いたいこと」「伝えたいこと」に整理します。この「言葉」でなくて、「情報」を英語で表現する、すなわち英語に切り換えて後半に入ります。

後半は英語で考えることです。この切り換えのポイントは、必ず「動詞」を使うことです。これが鍵です。

「選挙公約」でいえば、これをまず「約束」として、さらにそれを「約束した」と読み替えます。「約束」を英語で“promise”だとすると、次は動詞です。名詞の“promise”ではなくて“I promised.”です。これが肝心なところです。“I promised.”で初めて英語の世界に入ることができました。英語に切りかわった瞬間です。

――「納税」を「税金を払う」と読み替えるような感じですね。

そうです。そして、ここから“thinking in English”、英語で考えるプロセスが始まります。「約束した」から「約束したこと」“what I promised to do.”と進み、さらに「約束したことをした」“Idid what I promised to do.”と進むのは自然の流れです。

その上で、“what I promised to do.”を、さらに易しい言葉に言い換えてみます。“what I said in my(campaign)speeches.”、あるいは“what I was saying.” そして、そのすぐ先に、“what I said I would do. ”があります。究極の“simple English”です。

英語表現を一定の方向に向かって言い換える、この後半のプロセスは英語の運用力です。小著ではそのことを特に意識して、いろんな角度から実践しました。この訓練をすることによって、英語の運用力が間違いなく向上します。英語は「動詞」から始まります。

――よく英語は中学英語で十分話せると言いますし、また実際に、日本にいて英語が堪能になった人たちの英語は、おしなべて長部さんがいまご教示してくれたようにシンプルです。その核心にあるのは、「私は(選挙)公約を果たした」という日本語の発想を、「(選挙の時に)私がするといったことをした」という英語の発想に、「動詞」を使って切り替えられるかどうかだ、ということがよく理解できました。

さて、書店では英会話の本があふれていることからわかるように、多くの日本人が英語を話せるようになりたいと思っています。最後に、そうした読者にメッセージをいただけますでしょうか。

秘訣があります。ズバリそれは「質問力」です。

ご説明しましょう。英語と日本語が決定的に違うのは、英語が構造的にも文化としても、徹底した対話“dialogue”の言語であるのに対して、日本語は本質的には独白“monologue”の世界だということです。

対話は質問することから始まるキャッチボールで、それもスピード感をもって続けなければなりません。私たちはこの質問が、することもされることも、苦手です。彼らは質問することは、相手に関心を持ち理解したいという敬意を示すことで、礼儀であるとさえ考えます。

――確かに、ネイティブスピーカーと話していると、本当によく質問されます。

私にも経験があります。アメリカへ初めて渡った当初は、家に招かれたりしたとき、あるいはパーティーでも、どこへ行っても質問されることが多くて、いつも答えることばかり考えていました。これではまずい、と気がついて、ではどうするか、そこで見つけた答えが「自分から質問すること」、それも相手が質問する前に、です。

相手のいうことは、いつも質問を考えながらよく聞くように努めました。私たちの英語の勉強では、質問に答えることはあっても、自分で質問を考える訓練はありませんでした。あるトピックについて話を聞いたり文章を読んだら、それについて内容を確認する質問をいくつも作り、それによって聞いたり読んだりしたことの理解を深めることができます。

それができるとさらに一歩進んで、内容について自分自身の疑問が浮かぶようになると、自分の考えが明確になり、これが対話、すなわちコミュニケーションに展開します。聞くことも読むことも、それだけでは終わらせず、必ず質問を考える習慣をつける。私はこの訓練を新設の中等教育学校に、“Socratic Approach”と称して提案したことがあります。

――英語を話すということは、「対話」の作法を身につけることであるわけですね。本書『伝わる英語表現法』は、ぼくがこれまで読んだ英語学習本の中で、間違いなくもっとも素晴らしい本です。ぜひ、すべての英語学習者に手に取っていただければと思います。本日はお話をお聞かせいただき、本当にありがとうございました。

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